公認会計士稲井幸晴事務所
登録関係
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税理士登録年月日昭和37年11月5日
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税理士登録番号13341
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事務所所在地〒530-0005
大阪市北区中之島6丁目1番54号
TEL:06-6443-0335
FAX:06-6443-4454
アクセス
業務概要
- 法人税、所得税、相続税、消費税等、その他諸税
- 税務関係顧問契約会社数 25社
- ◆こちらは、社員稲井幸晴の個人事務所(会計事務所)となります。
- ◆監査証明業務実施会社の税務については、監査の独立性の問題により実施できません。
表彰関係
- 近畿税理士会会長より30年以上にわたり税理士業務に従事したことについて表彰
- 日本税理士会連合会会長より30年以上にわたり税理士業務に従事したことについて表彰
- 近畿税理士会会長より50年以上にわたり税理士業務に従事したことについて表彰
稲井家の歴史
◆稲井家の発祥 高祖・脇屋義助(清和源氏・新田義貞舎弟)嫡男・脇屋義治が村上水軍の将・村上師清に託した子息に与えた大島稲井城により「稲井」と改姓、以来7代、因島村上水軍第2家老として海外貿易を担当し、禄高2,048石を扶持された。
◆関ケ原合戦後広島498千石で入部した福島正則に招かれ広島に港を造り海外貿易を企画したが、これが徳川幕府の咎めることとなり、福島正則は川中島45千石に改易された。次いで、宇和島伊達家300石の仕官となるも、海外貿易はするな、医者になれと京都で5年医業の修行をして殿のお相手役を務めた。
◆宇和島伊達家を弟に譲り、本家は大和郡山・松平忠明家に仕官するも、同家は白河在封時代相続争による家老の対立があった。この家老の1人奥平金弥に稲井家の娘が嫁いでいたが、稲井家は対立する家老のどちらにもつかず元禄の2年前には宇和島に帰省していた。幕府は元禄5年家老2人の父子とも遠島処分にした、このため稲井から嫁いだ家老の孫に宇和島伊達家を継がせることとした。
◆その後稲井の母方の松山藩家老の後を稲井家次男が相続した、その子息が別の家老の相続問題により宇和島伊達家の孫の子息を紹介し松山藩家老となったが、この家老が享保飢饉の処置により生名島遠島処分となった。この処分で終われば問題なかったが、実は8年後に目付2人により殺害された他、紹介した家老が嫡男・直七郎を本家に託し切腹させられた。本家の当主が介錯したものと思われる。
◆稲井本家は宇和島伊達家をすべて死去したことにして、父は松山藩壬生川村に、子は天領上市村に、母と孫は西条藩氷見村に隠れ住んだ。稲井家から嫁いだ稲井家(奥平家)は高松へ、海南市の分家は阿波徳島・板野郡土成町へと稲井家すべてが身を隠した。
◆これに対し宇和島伊達家も松山藩も最大限の協力をしてくれた。稲井家の後を藩主の一族で稲井家を相続し幕末まで家老を務め、現在東京にご子孫が在住している。切腹した松山藩家老の家は断絶するも1年後縁者をもって家名再興し幕末まで継続している。
◆高祖・脇屋義助は、源頼朝が作った鎌倉幕府・北条政権を滅ぼし「建武の中興」を果すが、反乱した足利尊氏と南北朝時代の宮方として父子ともに尊氏討伐のため戦う、脇屋義助は四国の南朝軍の総帥として伊予今治に到着後病により倒れた、同氏の霊廟は伊予国分寺の近くに「吉野朝忠臣・従三位・脇屋義助霊廟」とある。嫡男・義治は新田義貞三男義宗と共に河野家の知遇を得て松山の草深い日浦の里にて没し、この地に両新田神社、円福寺が建てられている。
◆私・稲井幸晴は高祖・脇屋義助の直系23代目の孫にあたり、調査に約15年の歳月をかけて「稲井家」、「続稲井家」を出版した。
この出版を記念して、関西電力株式会社元取締役社長・吉村清三氏が関西電力元役員諸侯(吉村、伊藤、野村、安元、宗岡、篠崎、岩崎、福谷、木村等(敬称略))を招集し祝賀会を平成4年7月実施してくださった。
◆本著書に対し国会図書館では平成4年11月「稲井家」、「続稲井家」ともに「伝記」分類のうえ全国図書館に通知した。
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1)高祖・脇屋義助ー南朝忠臣・従三位脇屋義助廟 愛媛県今治市国分4丁目1-33・伊予国分寺近くに霊廟あり
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2)2代目・脇屋義治ー終焉の地・墓石・両新田神社・永徳山円福寺 愛媛県松山市河中町日浦にあり